J-Law°

司法試験・予備試験受験生やロー受験生のモチベーション維持のために、定期的に問題の検討をしていきます。

検討課題1:検討編①~憲法上の権利の制約~

Ⅰ 問題の分析~入口の特定~

 中央大学法科大学院にしてはオーソドックスな問題でした(この言葉の意味は過去問演習をしていればわかるはずです。)。この問題文を読んだ時点で、泉佐野市民会館事件判決(最3小判平成7・3・7民集49巻3号687頁〔Ⅰ-81〕)に沿った検討が求められていることは、受験生であれば把握できるはずです(この把握ができないというのであれば、憲法の勉強がまだまだであり、かつ、問題演習が不足していることになります。)。問題文をよく見ると、「警備」に関する情報が丁寧に書かれています。となると、敵対聴衆の法理を使うことは浮かぶでしょう。ここまで把握した上で論述すれば、中央大学法科大学院の受験としては十分すぎる合格答案です。もっとも、今回の問題で上位と普通とをわけるのは、設問2です。この時間的条件が設定された許可処分がどのような影響をもたらすのかを考えなくてはなりません。直接的な参考になるものではないですが、最3小判昭和57・11・16刑集36巻11号908頁〔Ⅰ-85〕などが頭に浮かんできます。

 設問1の検討に入る前に、入口の特定(具体的自由の設定、権利及び条文の選択、違憲の対象の特定)をしておきます。本問では、違憲の対象は本件不許可処分であり、具体的自由としては、XらがB中央公園で集会を行う自由です。これは、憲法21条1項の集会の自由による保障だと考えられます。

  

Ⅱ 憲法上の権利の制約

1 知識の整理1―集会の自由に関する知識

「集会」とは、特定又は不特定の多数人が共通の目的をもって、一定の場所に一時的に集まることを意味します。21条1項で保障されるため、表現の自由と同様の保障根拠が妥当します。

 成田新法事件[1]では「現代民主主義社会においては、集会は、国民が様々な意見や情報等に接することにより自己の思想や人格を形成、発展させ、また、相互に意見や情報等を伝達、交流する場として必要であり、さらに、対外的に意見を表明するための有効な手段であるから、憲法21条1項の保障する集会の自由は、民主主義社会における重要な基本的人権の一つとして特に尊重されなければならないものである。」としています。これより、集会の自由は、①集会は国民が様々な意見や情報等に接することにより自己の思想や人格を形成、発展させ、また、相互に意見や情報等を伝達、交流する場として必要である点②対外的に意見を表明するための有効な手段である点という2つの性質[2]を持つものです。この性質を有していれば、集会の自由の「集会」といえ、かつ、重要な権利であることになります。

 

2 知識の整理2-パブリックフォーラム論

 パブリックフォーラム論とは、表現活動のために公共の場を利用する権利は、場合によっては、この場所における他の利用を妨げることになっても保障されるとする理論です。その趣旨としては、表現手段に乏しい国民は公的な場を利用することで表現の自由の実効性を確保する点にあります。

 パブリックフォーラム論について、多くの受験生は知ってはいるのですが、その記述が正確なものとはいえない答案が多数見受けられます。そもそも、どうしてパブリックフォーラム論という考え方を持ってくるのか、その問題の場面がどこなのかをちゃんと把握しておくべきです。

 どのような場面でこの理論を用いるかというと、許可制のような法制度は許可のない限り集会ができない制度ですから、原則として集会できないものです。となると、できないことに対してできないと言っても制約にはならなくなってしまいます。しかし、原則として利用できる状態にあったのであれば、拒否することは制約になります。パブリックフォーラム論は、場所の原則形態に着目して表現活動が認められているのかどうか(制約になるのかどうか)を考えるものです。

 よくある誤解は、「市民会館を利用することを請求する権利」を認めるものであるという考えです。この考えは、保障範囲の段階での問題と捉えています。しかし、泉佐野市民会館事件判決では、「本件会館の使用を拒否することによって憲法の保障する集会の自由を実質的に否定することにならないかどうかを検討すべきである」と述べていることから、制約の段階での問題であると捉えています。

 まとめると、場所の原則形態を特定することによって、その場所での表現活動がそもそも認められていたのかを考えることが、日本の判例におけるパブリックフォーラム論ということになります[3]。原則形態はどのようにして特定されるのか。判例「場所の目的」に着目しています。当該場所の目的の範囲内であれば、原則利用できることになります(目的の範囲外であれば、行政庁の裁量の問題であり、行政法の問題となります。)。そして、「場所の目的」をどのように決めているかというと、判例は、法律や制度の仕組みから解釈により目的を特定しているのです[4]

3 本問の検討

 本問では、本件不許可処分が公園で集会する自由を侵害し、違憲かどうかが問題となります。まず、「集会」の定義を示したうえで、Xらのしようとしている「やっぱりいらない東京オリンピック全国総決起集会」が「集会」にあたるかのあてはめをしましょう。憲法であっても、条文の文言解釈→あてはめ→結論という法的三段論法は展開されるべきです。

 次に、制約の有無です。本件では、A県公園管理条例によれば、公園の利用は許可があって初めてできるのであり、不許可処分はできないことをできないといっただけにすぎません。そうすると、本件不許可処分は制約にならないことになりそうです。このような問題が生じて、はじめてパブリックフォーラム論の出番となります。

 そもそも、公園とは「公の施設」(地方自治法244条1項)であり、「正当な理由がない限り」利用を拒んではならない(同条2項)とされています。となると、「住民の福祉を増進する目的」である限り、原則として、集会をすることはできます[5]。Xらの集会はこの目的に反するものではなく、目的の範囲内です。そのため、不許可処分をすることは集会の自由への制約となります。

 もっとも、「管理上支障があると認められるとき」には不当な制約とはいえず、不許可処分をすることができます。では、「公園の管理上支障があると認められるとき」とはどのようなときなのでしょうか。判断枠組みを定立していきたいと思います。

 

※検討編②へ続く!

https://j-law.hatenablog.com/entry/2020/05/08/232926 

 

[1] 最大判平成4・7・1民集46巻5号437頁。ただし、百選にはこの部分の引用がありません。この判例は、民事訴訟法や行政法においても重要な判例です。判旨を印刷して手元に持っていることをおススメします。

[2] 性質①は自己実現の価値、個人の自律や思想の自由市場に資するという保障根拠に近いものと思っています。性質②は自己統治の価値に相当するものと思います。権利の重要性でも使うことができますね!

[3] 権利の重要性の段階の問題として捉える考え方もあります。つまり、“市民会館で集会する自由”の性質について検討するというイメージです。これは、伊藤正己裁判官の補足意見を利用した考え方です。なお、これは本来のパブリックフォーラム論ではなく、あくまでも伊藤正己流のパブリックフォーラム論です。

[4] アメリカにおけるパブリックフォーラム論は、歴史的な事実に着目し、当該場所の性質を確定させています。そのため、場所の類型化が可能になったのです。他方、日本の場合、伝統的なパブリックフォーラムという概念は歴史的事実から当然に導けるものではありません。そのため、パブリックフォーラムの類型論は厳密な意味では意味をなしていないともいえます(最高裁は類型論に即した言葉の使用を控えているようです。使っているのは伊藤正己裁判官の補足意見が中心です。)。もっとも、使ってはいけないというものではありません。

[5] 公園に関する判例として、皇居前広場事件(最大判昭和28・12・23民集7巻13号1561頁〔Ⅰ-80〕)がある。この判例では、法律上、皇居外苑の設置目的の下に、国は外苑を公衆に利用させる義務を王と同時に、公衆は外苑の利用請求権を有するとしています。ただ、この利用請求権は法律上の権利にすぎず、憲法上の権利ではありません(これを乗り越えたのが泉佐野市民会館事件判決ということになります。)。