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検討課題15:検討編~知識の整理と本問の検討~

Ⅰ 知識の整理―思想・良心の自由

1 「思想・良心」の意義【保障領域】

 「思想・良心」の意義については、内心説(=内心におけるものの見方ないし考え方)と信条説(=内心におけるものの見方ないし考え方のうち、信仰に準ずべき世界観、人選完投個人の人格形成の核心をなすもの)の対立があります[1]。いずれの説をとっても、単なる知識や事実の認識は含みません。定義として、「個人の持つ世界観や歴史観およびそれに由来する信念」とでも記載し、あてはめをすれば、解答としては十分だと思います。

 また、思想と良心を区別する考えもあります。これについては、両者を分ける必要がないというのが通説です[2]

 思想・良心の自由の保障根拠は、内心の精神活動の自由そのものであり、それは人格的生存のために必要不可欠なものである点にあります。

 

2 制約1―「侵してはならない」の意義と制約類型 【制約】

 今まで見てきた憲法上の権利は、権利の内容の類型として見てきました。思想・良心の自由もそのようにみることはできるのですが、制約の類型から逆に考えていった方がわかりやすいので、今回は制約の類型として見ていきましょう。

 制約類型は3つあります。①内心に基づく不利益な取り扱い、②内心の告白の強制、③外面的行為の強制です。内心にとどまる限りは絶対的に保障されるというのを具体的に見ていきましょう。

⑴ 内心に基づく不利益な取り扱い

 ①内心に基づく不利益な取り扱いについては、個人が特定の内心を保持することを理由に不利益を課す場合をいいます。この問題は、憲法14条の「信条」による差別も関わってくる問題です。

内心に基づく不利益な取扱いをすることそのものが目的の場合は、直接的規制となり、即違憲となります。一方で、別の目的から結果的に特定の内心を保持する者に対して負担を課すことになる場合は間接的規制に過ぎないとして、正当化される余地があります。

ここについては、麹町中学内申書事件[3]三菱樹脂事件[4]判例としてあります。特に麹町中学内申書事件については、外観からの認識の可能性が問題になっています。被告の反論でしばしば使いますので、チェックしておきましょう。

⑵ 内心の告白の強制

 ②内心の告白の強制については、いわゆる沈黙の自由です。2つの制約態様があります。⒜人の内心にあるものの開示・表明を強いられること⒝人の内心にあるものに反する表明を強いられることである。これらの制約がある場合は、即違憲となります。あくまでも、内心における思想・良心の告白の場面であるという点から、消極的表現の自由とは異なると言われています。

⑶ 外部的行為の強制

 思想・良心の自由は、内面における絶対的保障をしていますが、思想・良心に基づく外部的行為にも保障が及ぶのでしょうか。これは、見方を変えれば、外部的行為を強制する場合に、思想・良心の自由への制約といえるか、という問題です。

 判例は、内心に由来する外部的行為についても、憲法19条は保障しているとしています。というのも、思想・良心の自由の保障根拠が人格的生存に不可欠である点にあるところ、内心に由来する行為が制約されることは、人格的生存にとって不都合だからです。

 外部的行為への強制については、⒜制限対象は表見的には人の外面領域であるが、その目的が人の内面領域の否定や告白の強制等である場合[5]と、⒝制限対象はあくまでも人の外面領域にすぎないが、そのような制限を介して結果として人の内面領域も制約を受けていると評価する場合の2つの類型が考えられます。

 ⒜の類型は、直接的制約です。例えば、キリストの絵を踏むという行為を強制させる場合が典型例です。当該行為を強制する目的は、本人の思想がキリスト教に由来するものか否かを告白させることにあります。このような目的の場合は、直接的制約として、即違憲となるでしょう[6]

 ⒝の類型は、間接的制約です。間接的制約のポイントは、目的が内心における世界観や歴史観を否定することを目的とするものではないということです。従来は、間接的制約が認められませんでした[7]。しかし、国家起立斉唱事件をきっかけに間接的制約という類型が確立され、正当化論証に流れる余地が生じました。

 では、このような制約にあたるか否かはどのように判断されるのでしょうか。次項で、判例を分析してみます。

 

3 制約2-制約該当性の判断の仕方

 制約にあたるか否かについては、「君が代」ピアノ伴奏事件[8]と「君が代」起立斉唱事件[9]を対比することで、判断の仕方を見出すことができます。前者は制約がないと判断され、他方、後者は間接的制約があると判断されています。この差はなぜ生じたのでしょうか。

⑴ 直接的制約の有無

 まず、いずれの判例も直接的制約の有無を検討しています。若干の表現の違いはありますが、①強制される外部的行為の性質が歴史観ないし世界観を否定することと不可分に結びつくものかどうか②強制される外部的行為が特定の思想またはこれに反する思想の表明として外部から認識されるものと評価できるかどうかを、一般的・客観的見地から判断しています[10]

ピアノ伴奏事件では、ピアノ伴奏を拒否することは、一般的には、上告人の歴史観ないし世界観に不可分に結びつくものではない(①)とし、さらに、「ピアノ伴奏をするという行為自体は、音楽専科の教諭等にとって通常想定され期待されるもの」であるとして、「特定の思想を有することを外部に表明する行為」ではない(②)とされました。

起立斉唱事件では、「一般的、客観的に見て、これらの式典における慣例上の儀礼的な所作としての性質を有するものであり(①)、かつ、そのような所作として外部からも認識されるものというべきである(②)」として、直接的制約を否定しています。

⑵ 間接的制約の有無

 ピアノ伴奏事件は、上記の検討で終わってしまいました。しかし、起立斉唱事件では、強制される外部的行為につき、歴史観ないし世界観に由来する行動と異なる外部的行為と評価できるかどうかを、一般的・客観的見地から判断しています

 すなわち、「上記の斉唱行為は、教員が日常担当する教科等や日常従事する事務の内容それ自体には含まれないものであって、一般的、客観的に見ても、国旗及び国家に対する敬意の表明の要素を含む行為である」とし、この点でピアノ伴奏とは異なるとの判断をしています。場合判例として位置づけるのであれば、ⓐ教員の日常担当する教科等や日常従事する事務の内容それ自体には含まれないものであり、かつ、ⓑ一般的・客観的にも国旗及び国家に対する敬意の表明を要素と含む場合[11]には、間接的制約が認められると判断したことになります。

 

4 判断枠組み

 起立斉唱事件では、間接的制約の違憲性についての判断枠組みとして、「職務命令の目的及び内容並びに上記の制限を介して生ずる制約の態様等を総合的に較量して、当該職務命令に上記の制約を許容し得る程度の必要性及び合理性が認められるか否かという観点から判断する」としています。

 行政法を学習するとなんとなく判断枠組みの意味はわかるのですが、未学習なので、ここではいつものように権利の重要性×制約の重大性×裁量から判断枠組みを立て、個別具体的検討をすればよいです。このように考えても、判例のいう「制約の態様」は制約の重大性、「目的及び内容」は個別具体的検討における目的部分、「必要性及び合理性」は手段部分に位置づけることが可能です。なお、公務員という特殊性を判例は考慮しています。とすれば、公務員以外では審査密度が変化する可能性があります。

 

 

Ⅱ 設問の検討

1 Xの主張の大枠

 Xが主張する具体的な自由を設定しなくてはなりません。Xにはどのような制約があるのかという点から逆算的に認定してみましょう。

 「君が代」斉唱時に必ず起立し、かつ、隣に聞こえるように歌うことという職務命令がありました。この職務命令により、Xは制約されたと言われているのですから、Xとしては、“「君が代」斉唱時に起立斉唱という行為を強制させられない自由”を主張することになります。そして、憲法19条の思想良心の自由に違反すると主張するのですから、そのことを意識して設定する必要があります。

このようなことを頭の中でやって、“Xの信念に反して君が代」斉唱時に起立斉唱することを強制させられない自由”というような具体的な自由を設定するのがよいと思います。 本件職務命令は、この具体的な自由を侵害し、違憲であるという主張をしていきます。

           

2 憲法上の権利の制約

⑴ 保障範囲

 “Xの信念に反して「君が代」斉唱時に起立斉唱することを強制させられない自由”が憲法19条により保障されるか検討していきます。

 まず、Xの具体的な自由は、外部的行為を強制させられない自由にあたります。そこで、条文を見ると、思想・良心の自由は内心において絶対的に保障されるものにすぎず、信念に反して外部的行為を強制させられない自由が保障されるのかは明文上はっきりしません。そこで、このような外部的行為に関する自由が保障されるのかが問題となります。

 この点については、思想・良心の自由の保障根拠が人格的生存に不可欠である点にあるところ、内心に由来する行為が制約されることは、人格的生存にとって不都合であることから、内心に反して外部的行為を強制させられない自由が保障されることになります。

 次に、“Xの信念に反して「君が代」斉唱時に起立斉唱することを強制させられない自由”が、「思想及び良心」の自由として保障されるかを検討します。「思想及び良心」とは、「個人の持つ世界観や歴史観およびそれに由来する信念」のことでした。Xの信念とは、国家の権力維持の補完装置として天皇制があり、「君が代」は権力維持装置として天皇制を精神面で強化するものにすぎないというものです。これは、Xの持つ歴史観に由来するものですから、「思想及び良心」にあたります。

 この2つの検討をすることで初めて、“Xの信念に反して「君が代」斉唱時に起立斉唱することを強制させられない自由”が憲法19条により保障されることになります。

⑵ 制約

 思想・良心の自由において、一番問題になるのは、制約の認定ができるか否かでした。判例は、直接的制約を検討した上で、間接的制約を検討しています。今回も、この順番で検討していきます。

 まず、直接的制約ですが、判例は、①強制される外部的行為の性質が歴史観ないし世界観を否定することと不可分に結びつくものかどうか②強制される外部的行為が特定の思想またはこれに反する思想の表明として外部から認識されるものと評価できるかどうかを、一般的・客観的見地から判断しています。原告としては、①②を満たすと主張したいところですが、判例上は認められないでしょう。つまり、「君が代」を起立斉唱することは、一般的、客観的に見て、これらの式典における慣例上の儀礼的な所作としての性質を有するものにすぎず、Xの信念を不可分に結びつくものではありません。また、そのような所作として外部からも認識されるものであり、Xの信念に反していることが直ちにわかるものではありません。そのため、直接的制約は認められないでしょう。

 なお、「君が代」の起立斉唱は、Xの信念と関連するものであり、①の要素を満たす余地はあります。また、本問においては、隣に聞こえるように声を出し教員同士で実際に歌っていることまで確認するようにするとのことでした。このような事実から、「君が代」について強い信念があるとの認識がされる余地があります。ただし、このような主張が判例との関係で妥当なものであるとは考えにくいです。そのため、Yの反論により潰されるでしょう。

 上記のようなことを、Yの反論として想定します。「確かに、Yは…直接的制約はないとの反論をする」といった感じで答案には書くことになるでしょう。Xの主張は、まさに間接的制約を認めるというものです。ⓐ教員の日常担当する教科等や日常従事する事務の内容それ自体には含まれないものであり、かつ、ⓑ一般的・客観的にも国旗及び国家に対する敬意の表明を要素と含む場合に間接的制約は認められるのでした。ⓑの要素については、判例からすれば、本問でも認められるはずです。もっとも、本問においては、学習指導要領に載っているという事実が、ⓐとの関係で問題になります。この点、判例の事案も学習指導要領に載っていたはずですから、この事実があったとしてもⓐを満たすという結論にはなると思います。では、どのような論理なのでしょうか。1つは、法律上の義務はないという理由ですが、判例は学習指導要領に法的拘束力を認めています。ほかの理由としては、ⓐは学習指導要領のうちでも日常的に行うものに限られるとか、強く歌うことまでは要請するものでないとかが考えられます。いずれにせよ、ここについての自己の見解を明確に示した上で、原告の主張を構成しましょう。

 

3 判断枠組みの定立

 Yの反論としては、間接的制約にすぎず、内心を否定するものではないことから、人格的利益を大きく害しておらず、重大な制約とはならないとの反論が考えられます。これを踏まえてもなお、Xとしては、Xの信念が学生時代から続く強い信念であり、Xが日常的にも話すことがあったことから、Xのアイデンティティの形成にとって重要なものであることを主張していくことになるでしょう。そうすると、人格形成における強い要素といえ、重要な人格的利益といえることになります。

 もっとも、公務員であることから、職務の公正及びA高校の卒業式の円滑な遂行任務として課せられているものです。そのため、かかる義務はすでに受忍されているものとして、この義務に関する職務命令について、校長に広い裁量があるとの反論があり得ます。そうすると、判断枠組みは緩やかになってきます。

 これらの要素を踏まえて、判断枠組みの定立をしていきましょう。処分違憲のうち、文言の解釈ができない場合などのとき、判断枠組みは目的手段審査を使えませんが、それっぽいことはできます。例えば、「当該職務命令をした理由が重要な権利保護のためであり、当該職務命令の内容が必要性及び相当性を満たす限りは合憲である。」といった感じです。

 

4 個別具体的検討

 「君が代」起立斉唱事件では、最高裁は、「職務命令は……高等学校教育の目標や卒業式等の儀式的行事の意義、在り方等を定めた関係法令等の諸規定の趣旨に沿い、かつ、地方公務員の地位の性質及びその職務の公共性を踏まえた上で、生徒等への配慮を含め、教育上の行事にふさわしい秩序の確保とともに当該式典の円滑な進行を図るものである」としています。このことから、本問においても、この部分は適用されるように思います。この目的は、生徒の学習権に関するものともいえます。

 では、職務命令の内容についてはどうでしょうか。本件職務命令では、教員同士で実際に歌っていることまで確認すうように求めています。この点が過剰ではないかという指摘を原告としてはすることになるでしょう。

Fin

 

[1] 最高裁は多数意見において、いずれの説によるかを明示していません。千葉裁判官は補足意見で、信条説に立つことを明示しています。

[2] 分けるのであれば、良心の自由とは信条説の範囲、思想の自由はより広い内心説の範囲という分け方ができます。良心の自由が保障の対象とするのは、歴史観または世界観とすると、それから生じる社会生活上ないし教育上の信念を思想ととらえます。ここについては、受験新報2016年4月号19~21頁を参照。

[3] 最2小判昭和63・7・15判時1287号65頁。この事件では、「いずれの記載も思想、信条そのものを記載したものではない」として、憲法19条の保障が及んでいないと判断しました。しかし、内容は明らかに思想に匹敵するものであり、外部的認識も可能ですから、この判例は批判されています。

[4] 最大判昭和48・12・12民集27巻11号1536頁。この事件では、特定の思想を理由に解雇したことについて思想・良心の自由への制約を認めています。この点で、前掲・昭和63年判決と矛盾するとの評価もできないことはないです。

[5] 沈黙の自由への制約と重なります。

[6] 直接的制約を認めた判例はありませんから、即違憲となるか否かは怪しいところです。仮に正当化論証に流れるとしても、厳格な基準の下に判断されることになるでしょう。

[7] 最大判昭和31・7・4民集10巻7号785頁(謝罪広告事件)では、謝罪広告を強制する行為は「単に事態の真相を告白し陳謝の意を業名するに止まるもの」として、思想・良心の自由への制約を認めませんでした。また、最3小判平成2・3・6判時1357号144頁(ポスト・ノーティス事件)でも、「同種行為を繰り返さない旨の約束文言を強調する意味を有するにすぎ」ず、「上告人に対し反省等の意思表明を要求するものではない」と判断し、制約がないとしています。判例は、一般的・客観的にみて、思想・良心に基づく外部的行為か否かを判断しているようです。

[8] 最3小判平成19・2・27民集61巻1号291頁[平成19年度重判3]。

[9] 最2小判平成23・5・30民集65巻5号30頁。時期的に近接して同旨の判断が、最1小判平成23・6・6民集65巻4号1855頁や最3小判平成23・6・14民集65巻4号2148頁がなされている。そのため、当該判例は実質的大法廷判決とも評される。

[10] 直接的制約は、侵害を目的とするもの、と整理しました。もっとも、侵害を目的とするものか否かは、一般的、客観的に判断しなくていけません(主観的に判断したら、全部直接的制約になってしまいます。)。そのため、本文の①②は侵害目的を基礎づける評価根拠事実であると位置づけるとわかりやすいかもしれません。

[11] 直接侵害における②外部からの認識可能性と間接侵害における外部的評価は、同じなのではないか、と疑問に持つ人もいると思います。直接侵害は、その人自身の思想が外部から認識可能か否かという点に着目しています。対して、間接侵害は、認識はできないまでも、その行為が強制させることで思想に反する行為が強制させることになります。そういう意味で、思想に反する要素を含むという点がポイントです。まとめると、直接侵害は要素+認識であるのに対し、間接侵害は要素である、ととりあえず押さえておけばいいでしょう。